<91>対立関係と多数決の論理
新規投稿者 阿座上洋吉  投稿日 11/14(日) 16:38:06  返信も含め全削除

1.中立意識だけではなく対立意識の勉強も
 日本人の人間関係の思想は、村社会の文化が中心にあり人間関係の「和」を重視する。そのため人間関係をできるだけ対立構造を避けようと努力する。しかし近年の日本社会はこの村社会文化に異変が起きており、従来型の和の文化が崩れだしてきた。ビジネス界においても長く続いた仲間の和による護送船団方式が世界で通用しなくなってきた。今、日本人は過去の村社会文化を想い出しながら新しい都会型の村社会文化の創造に懸命である。日本各地で行われている「新しい生活文化の創造」に関するシンポジュームの多さから見てもその関心の高さがわかる。日本人の人間関係論は争いを避ける方法として中立の立場という意見が多い。この中立の立場という概念は重要であり大いに結構なことであるが、日本人の中立概念には大きな弱点をもっている。対立関係の中で大議論の結果として中立という立場を主張するのであれば立派であるが、日本人の中立概念は、出来るだけ争いを避ける結果としての中立の概念であり、自分の本音としての自己主張もしないで当初から中立という立場だけを主張しているだけである。これでは争点となる問題について議論に参加していないではないか。

2.中立という概念が乏しい多民族国家
 日本以外のほとんどの国は多民族国家であり、多民族の会議は最初から対立することを想定して議論を開始する場合が多い。価値観が多様化している多民族国家であるから当然のことである。したがって自分の価値観で徹底的に議論する。つまり自分の価値観で異民族の相手に徹底的に自己主張しなければ議論負けするからである。このような議論は単一化した日本民族では考えられないのかも知れない。自分の価値観による自己主張であるから、相手の主張を簡単には受け入れないし、価値観が違う相手側も簡単には賛成してくれない。そのため安易に意見の接点が見つからないのも当然である。このように多民族の国では中途半端な議論はしないし、自分の価値観で徹底的に自己主張の議論となるのである。そのため中立や妥協するという概念が乏しく、この点を日本人と多民族の国と比較すれば中立とか妥協するという概念は無いに等しい。

3.多数決論理の本質
 日本人には多数決という概念が乏しく無いに等しい。激しい議論を嫌い自己主張もあまりしない。また表決をとるにしても会場の空気を察知し、参加しているひとの顔色を伺いながら、自分の本心とは関係なく建前の意思表示をする。これでは多数決という道具を使っているとは言えないのである。多民族の国では徹底的に議論しても賛否の結論がでない場合に用いられるものが多数決という道具である。日本の場合は声の大きい者や地位、権力者等の顔色で決まることが多く、本格的な議論や本物の多数決論理が機能しにくいのである。そのため中立や妥協という概念が重要であった。したがって建前では賛成しているが本音では反対の場合など常に不満を持っている。多民族の国では徹底的な自己主張をした後の多数決であるから、結果にはドライに対応する。これからは日本人も少しは自己主張の議論が出来るようにすべきであり、本物の多数決がドライに機能するようになりたいものである。

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