<137>小さな政府時代の日本的経営
新規投稿者 阿座上洋吉  投稿日 10/23(日) 12:07:51  返信も含め全削除

1.大きな政府時代の日本的経営に課題
 日本的経営がこのところ限界点に達していることに気付いているひとが多い。しかし具体的にどのように行動すればよいか悩んでいるひとも多い。なぜ、これ程までに日本的経営が混乱してきたのであろうか。社会学的に整理するならば原理的には当然である。日本的経営論議には、大きな政府、小さな政府の論議が大きく関係する。大きな政府の典型的形態が社会主義であり、国の経済のすべてが政府によって計画され、その計画にしたがって生産から消費に至るすべての行為が政府の管理下におかれるため、大きな政府でなければ対応することが出来ない。社会主義では国家的見地に立って生産設備の投資から人的資源の配分に至るまで政府の指示によらなければならない仕組である。一見、政府が国家的視点で国全体の資源を有効活用することができる利点がある。例えば日本のように北海道で採れる米が九州で消費されたり、秋田で採れた米が北海道で売られたりしているのは運送コストを考えれば無駄な行為である。国の施策として無駄を省き効率が上げる計画が必要であり、社会主義における大きな政府が優れた点である。しかし社会主義圏の国は、結果として非効率で経済システムが破綻したのも事実で、決して効率が良いものではない。ここに競争原理が必要になった理由がある。

2.小さな政府が要求される原理
 米の生産地と消費地の関係で分かるように、国家的見地からすれば大きなロスが発生する。しかし、競争原理が作用すると。美味しい米を安く作らなければ競争に勝てない。安くて美味しい米であれば全国、外国までが商圏として拡大する。政府の指示がなくとも生産者は勝手に市場を見据えて行動するのである。これが市場経済における小さな政府の原理である。政府の大きさは、予算規模や役人数で議論される場合もあるが、本質的には規制の権限範囲の問題である。規制で計画や行動に制限するのではなく、市場の競争原理によって非効率的な行為が減少し、効率の良いものが勝ち残る仕組である。政府を小さくし経済に口出ししない仕組の重要性がここにあるのである。しかし、このような激しい競争原理にさらされると弱肉強食の社会となり、人間の哲学や倫理観に馴染みが悪い部分が露呈する。この点が人類永遠の課題であり未解決の部分である。

3.小さな政府にならざるを得ない社会環境
 日本の高度成長期は、日本人にとって一番幸せな時期であった。大きな政府によって明解に方向が指示され、国民が一丸となって一生懸命働いた時代で、国民はその成果を実感し享受した。猛烈社員、会社人間、働き過ぎと言われ、世界からはエコノミックスアニマルとまで酷評されたものである。この時代は社会主義的大きな政府と競争原理がバランスよく作用し、日本人にとって最も快適な時代であった。然るにその後に起きたグローバル化の波は、一挙に日本の経済システムを破壊してしまったのである。競争相手が地球規模になり、日本国内だけの競争ではなくなり、世界中の異質な競争の影響を受け過去に経験したものではなく、もはや高度成長期に確立した日本的経営のままで経営が成り立たず、世界に通用する新しい経営哲学や手法が必要になってきた。日本のビジネス界はこの新しい時代を向かえ、日本的経営を見直す時期にきているのである。

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