<241>いじめの代表格セクハラを考える
新規投稿者 阿座上洋吉  投稿日 07/11/26(月) 11:22:59  返信も含め全削除

1.企業内の競争原理といじめ
 すべての生物は、生きるために懸命に努力をするが、この努力が曲者である。何故なら努力とはその目標となるものがあって、その目標に向かって努力するものである。その目標に向かって努力する者が複数であれば、必ず競争原理が作用する。これが自然界の摂理である。企業内においても同様であり、社員は同じ目標に向かって努力をするため、自然に競争原理が作用する。競争原理が作用すれば必ず勝ち組と負け組みに分かれる。この現象自体の仕組みがいじめの構造の根源になっている。生物が生き残るための摂理であるから、すべての生物集団の中で例外なく起きている現象である。この現象面の形態に問題があるのであって、この現象も利害関係者によっては、その努力を賞賛する人もいるし、羨ましいと思う人も入る。しかし、負け組みからは妬まれたり、恨まれたり、遺恨や禍根を引き起こす要因にもなるのである。この状況下で企業内いじめも発現する。脳が高度に発達した人類にとって、精神的に増幅される競争原理の作用が多様化する現象の一場面である。

2.人間の情緒的側面がいじめに相乗効果を引き起こす
 人間は高度に脳を発達させたが、他の動物界の行動と大きな違いが起きる。人間は脳を高度に発達したため、情緒的行動が多く見られ、高度な精神文化を作ることができたが反面、気分屋とかお天気屋といった精神的不安定の悪い面も同時に持ち合わせてしまった。他の動物にもいじめはあるが、そのほとんどのいじめ現象は、深い意味は無く、目の前にある当面の処理のための現象である。例えば食べ物の取り合いや、子孫継承のための争いであり、それ以上の深い意味は無い。然るに人間社会におけるいじめや争いは、精神的に増幅された状況下で起きるため、相手に対しても奥が深い攻撃が多発してしまうのである。

3.企業内のいじめ対策の遅れ
 企業内のセクハラ問題は、いじめそのものであるが、セクハラ問題が論じられたのは数年前からである。米国へ進出した日本企業の管理職が起こしたセクハラ問題は、当時の日本で本当の意味するものを理解できる人が少なかった。当時、日本の管理職の間では、「軽い冗談的な会話であり、日常化している通常の言動の範囲」という程度の認識しかなかったのである。しかし、欧米では既に冗談であっても、限度を越えたものとして法の制裁をすることは当り前になっていた。日本もようやく上級管理職(中間管理職の上部)のクラスまでは、セクハラの認識が浸透してきたが、未だに管理職や現場の監督者、担当者レベルでは何も変わっていないのが現状である。現在問題化している九州の市営バスの女性運転手のセクハラ問題も、運転手仲間では、ある言動がセクハラ問題になること自体がおかしいのであって、過敏に反応しているとの捉え方である。確かに古い時代の日本の職場は、もっと激しい言動があったが問題にはならなかったことは事実である。

4.人間関係における文化も国際化
 エリアレス化した地球環境は、人間関係の文化までも国際化が進んできた。これだけ進んできた国際化の波は、物やお金だけではなく、人間そのものが本格的に交流化してきたのであるから、当然に人間関係の文化も国際化の影響を受けることも当然であり、これからの日本は、この点を国際化しなければならない。

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