満州今昔物語 7の1
新規投稿者 三木 伸哉  投稿日 07/8/10(金) 09:54:07  返信も含め全削除
満州今昔物語 7
飢えの酷寒のシベリア抑留生活
ソ連が参戦して満州の地に進撃してきたのは20年8月9日、日ソ不可侵条約もなにもあったモノではなかった。終戦の日を過ぎてから、ソ連は火事場泥棒よりもっと卑劣きわまる行為で、575、000人の日本人を酷寒の地シベリアへ連行していった。そして日本の残した満州の重工業施設などのほとんどを掠っていったのである。
抑留生活が始まった。零下30度―40度のシベリアで、過酷な労働、黒パンと塩味のコーリャンのスープ、いつも空腹であった。栄養失調、発疹チブス、結核、過労、事故などで55、000人が亡くなった。
 酷寒の土地での埋葬、灯す線香もない。ただ戦友たちの合掌だけの弔いであったという。赤い夕日が野末に沈み、雁が飛ぶ遙か向こうに日本があるのだと、戦友たちは励まし合ったという。 「必ず日本へ帰るぞ、ダモイ(帰国)」を合い言葉にして堪えに耐え抜いた日本人であった。

ハバロフスクのラーゲリ(収容所)に、ひときわ美声で、歌唱力もあり浪曲の上手い兵隊がいた。本名、北詰 文司、かの有名な三波春夫であった。
彼はもう故人となってしまったが、ハバロスクの収容所で過ごしている。彼の呼び名は「浪曲上等兵」いつも日本の兵隊の慰問ばかりでなく、ロシア人にもその美声が讃えられ、ロシア民謡も歌ったという。
三波春夫はその美声と確かな歌唱力で、近隣の日本人捕虜収容所を回り、日本人の捕虜を激励して回った。

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