満州今昔物語 13の2
新規投稿者 三木 伸哉  投稿日 08/1/27(日) 07:09:01  返信も含め全削除
満州鉄道の設立当時
初代の満鉄総裁の後藤新平は起業家として、時局を見つめ、日本のみならず世界
の将来を展望するその才能においても傑出していたという。少々ハッタリ屋で 
はあったが、多角的な事業を次々と興し、満州の経済的な基盤を創っていった。
大和ホテルの建設、60年後のいまなおこの名前で、あの堅牢な大和ホテルが各
地に残っている。公共施設の建設、病院の建設、鉱山やガスの開発のための、会
社の設置、農産物の集積と輸出のための大連港の整備など、一大コンツエルンの
整備のために力を注いだ。
  後藤新平は満州に住む中国人、とりわけこの東北3省(遼寧省、国龍江省、
吉林省)の満族のために学校を建設した事が、後世の人たちにとって日本人の偉
業として讃えられることになる。つねに中国人にとって日本の政策が現地人に、
受け入れられるような施策の配慮、日本の統治を現地人が喜ぶような政策を行っ
ていったが、そのような甘い見通しで治めることはできなかった。
満州鉄道は大連の隣の旅順を始発とするが、長春までの列車に乗ったことがあった。広い線路、みはるかす沿線の果てには山一つなく、広々つづくトウモロコシ畑、野菜畑や稲の穂の揺れるあぜ道にはカモが行き来している。2000年の春ではあったが、日本がこの満州を統治していた頃の景観とどう異なるのであろうかと暮れていく窓外に目をやり、どこまでも続くコウリャンバタケを眺めていた。

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