日本の旅とその歴史の背景 1(モヨロ貝塚 1) 1
新規投稿者 三木 伸哉  投稿日 08/4/5(土) 06:53:59  返信も含め全削除
日本の旅とその歴史の背景 1(モヨロ貝塚 1)
オホーツクに生まれ育って
オホーツクの小さな漁村、興部に生まれて、後に父親から「お前はオホーツク海の海水で産湯をつかった」ともいわれた。だからめったに風邪を引かない。
父の職業の関係で生誕から38年間、18才から22までの4年間を除くと、オホーツク海の近くで育ち、酷寒の零下30度の、体の芯からシバレル体験もした。
 札幌の転居したのが38才、定年を終えて12年目、若く幼く、友人、知人は幽冥境を異にする人が多くなり、自分の体の部品にもガタがきはじめた。
このシリーズは、まず私の生誕の土地、網走管内のことから始めたい。札幌へ転居するまで興部、相内、生田原、女満別、訓子府、斜里、佐呂間、美幌、北見滝上と、まるで小さな町村を渡り鳥のように歩いた38年であった。

米村喜男衛さんと私の中学時代の邂逅
1913年(大正2年)9月3日、網走駅に1人の青年が降り立った。開通したばかりの汽車を乗り継ぎ、函館から3日間の旅程である。北辺の海の民、モヨロ貝塚の発見者、米村喜男衛さん21才であった。
 明治45年、東京で理髪業の仕事のかたわら、独学で考古学をやるうちに、アイヌ文化に強く惹かれていった。やがてその決意が北海道への旅たちとなる。
アイヌ文化は日高か網走であろう、ぼやぼやしていたら先を越されてしまうという焦燥感も抱きながら、函館にわたり、1年間の理髪業の仕事で資金を貯め、網走にやってきたのであった。
 網走は天然の良港として、幕末の頃からオホーツ沿岸随一の漁場として開かれていたが、当時人口は僅かに3000人ほど、寂しい漁村であった。
一夜明けて、翌朝はやく散歩に出かけた。運命の第一歩はこのときであった。網走川を左手に見ながら、進むうちこんもりとした森が見える。当時からモロリ村と呼ばれる原野であった。急な崖を登ろうとしたとき、急斜面からおびただしい
貝塚の層が現れてきた。その中に手つかずの土器、石器、骨角器、獣骨の破片などが夥しい量があらわれた。発見した土器はこれまでの見聞きしたモノと大きく異なり、全体に黒褐色の表面に縄目や刷毛目がみえる。これまでの考古学に見られなかった擦文土器の発見であった。 

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