日本の旅とその歴史の背景5(宗谷岬)の2
新規投稿者 三木 伸哉  投稿日 08/5/27(火) 08:56:54  返信も含め全削除
宗谷岬と樺太と、その背景
その宗谷丘陵の一角に旧海軍の望楼や、1983年(昭和58年)の大韓航空機撃墜事件の犠牲者を慰霊する「祈りの塔」などが建っている。そして北を臨むと、よく晴れた日であれば、約43qの彼方にサハリン(樺太)の島影が見える。
江戸前期の貞享年間(1684−88)、西蝦夷地に交易所が開かれ、オホーツク海沿岸や、樺太に住むアイヌとの交易の要所であった。
間宮林蔵はこの岬に近い珊内(サンナイ)から樺太探検に出かけている。そして間宮海峡の発見の偉業を成し遂げている。宗谷岬の付近には「日本最北端の地」に並ぶように、「間宮林蔵像」も建立されている。
 間宮林蔵は東海岸、松田次郎は西海岸の探索に出かけたのは、1808年であったから、もう200年の歳月を経る。
南樺太の人口の分布は、日本人(アイヌ人1272人も含め)386、057人
韓国、朝鮮人は19、798人、先住民族(オロッコ、ギリヤーク、ツングース)
423人という記録がある。
樺太に住んでいた人達からは、資源が豊かで、住みやすかったと口にする。水産物は世界の3大漁場といわれるオホーツク海、天然ガス、石油、林業のパルプ材や製材など、ほとんど日本人であった労働力は、実に勤勉であり、40万人の人口ではあったが、200万人の食料を生産できたという。
終戦時の南樺太の惨状は、満州の引き揚げ者と同様、言葉には表現できない辛酸を味わいながら帰国した人が多いが、帰国できない人が1000人もいた。実際にロシア人となって生活している日本人の映像も、テレビで見たことがある

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