日本の旅とその歴史の背景11(青森2)
新規投稿者 三木 伸哉  投稿日 08/6/16(月) 05:18:09  返信も含め全削除
その当時、領主は藩の財政を維持するために、豊作の年に獲れた米を俵ごと根こそぎ上方市場に運んでしまったのであった。
根こそぎ運んでしまったから、藩の米びつに一粒も残らず、翌年ふたたび凶作になると、大飢饉を招く、と言うメカニズムが繰り返された。
近世になってから、特に太閤検地によって、お上の決めた標準生産高を示し、この土地からは年貢(税金)として、○○という数字が示され、それを差し出した。江戸時代もすべての領地は石数で示された。加賀百万石のような前田藩もあれば零細な藩もあった。一人扶持は一日五合であった。
この年貢が、すべて米で供出する制度が、各地の天候の違い、土地の肥沃さに準じて算出された数量であったのか。
貧窮の極みにあえぐ庶民にとって、お上の過酷な税の取り立てに、次々と一揆が起き、打ち壊しが起きた。廻米(大阪や江戸に港から廻す米)を押さえ込む民衆は、まさに飢餓からの脱出の決死隊であった。しかしこれらの騒動も藩の徹底的な弾圧によって、廻米は実行され、また大飢饉が引き起こされた。
もともと青森は三内丸山遺跡に見られるように、豊かな貝や魚、昆布などの海の資源、山野に自生する栗などの食べ物が豊かであった。お上の決めた米による税の取り決めが、大量の餓死者を出したと言われている。

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