日本の旅とその歴史の背景15(小樽2)
新規投稿者 三木  投稿日 08/7/7(月) 11:14:40  返信も含め全削除
「ときをこえ 探してみようか 祖母の恋」
この句は、小樽観光協会のパンフに載っている句である。小樽の街はロマンが漂う街である。いつきても詩情が漂っている。ここ小樽で若かった時代の祖母が、誰かに恋をして一生を終えたのかもしれない。探してみようか、、となるのであろう。
 北海道の西海岸に押し寄せた鰊の群は、昭和の20年代の後半までであったろうか。30年代にはその姿も消えた。「一網千両、万両」といわれ、莫大な財をなした網元は多かった。
小樽鰊御殿の所有者であった田中福松氏も鰊大尽とよばれ、この積丹地方の有数の網元として、権勢を誇っていたようである。小樽の鰊御殿は平成17年の台風で屋根が吹き飛んでしまい、その修復に手間取ったようである。
鰊御殿の中には「どんでんがえし」の間というのがあり、流れ者が白刃をかざしてやってくる、不漁の年にも取り立てがやってくる、花魁が逃げ場を失いやってくる、この「どんでん返しの部屋」から逃げた。
短刀(ドス)をもつ漁夫ら束ねる親方の 野太きこゑの聞こえくるごと 

小樽運河の歴史
「小樽雪明かりの道」を散策した。夕影が迫り、やがて西に日が落ちていった頃小樽運河の絶好点のスポットに三脚を据える人、一脚の人、さまざまであった。
 小樽運河の歴史は古く、大正12年(1923年)に完成した小樽運河は、長さ1300M、幅40Mの水路、海上に停泊した貨物の荷揚げに、この運河は大活躍をした。
 しかし太平洋の苫小牧の港湾の整備と共に、いつのまにか小樽運河は無用の長物として、衰退していく。昭和40年の頃であった。
このころ小樽市は全面的にこの運河を埋めたてて、全面を道路として整備するという案が示された。
「運河を残せ。あのロマン溢れる運河を残せ」という声が、全国から遼原の火のように広がった。全面保存と全面埋め立ての折衷案になったのか、昭和58年埋め立て工事の開始、昭和61年には道道小樽臨海線が開通した。

返信する

パスワード

一覧へ戻る】 ※最新の画面を表示するには再読み込みしてください.