日本の旅とその歴史の背景 22(島原の旅2の2)
新規投稿者 三木  投稿日 08/9/8(月) 04:19:13  返信も含め全削除
鬼畜のような政治と反乱
途方もない金のかかる築城をしてからも、想像を絶するような税のとりたてをしていた。子供が生まれれば人頭税、いろりを作ればいろり税、窓をつくれば窓税、昔から難治の土地といわれ、どんな政治を行っても難しいと言われる土地に、重税を課し、住民の人権もなにも無視した。
この痩せた土地からの幕府への報告は、2万石を4万2千石と、非常識きわまりない報告していた。松倉は大きな大名であるかを誇示したかったのであろう。
領民はたまったものでない。15万円しかない月給を、32万円あると報告されたらどうなるであろう。着任早々五層の築城に、述べ一〇〇万人の労働力、七年の歳月をかけて途方もない立派な城を建築。すべて領民の血と膏の結晶であった。そして更に重税である。民はついに一揆を起こした。

当時の文献を調べれば島原領内で、総人口27、671人のうち、86%にあたる23671人が一揆に参加した。そしてその半数が死亡している。原城に籠城した、島原と天草の37、000人の一揆の老若男女はひしめいていた。
しかし幕府の要請を受けたオランダ船が洋上から砲撃、また西国の諸大名に大動員の号令がかかり、包囲勢は12万4千、籠城してすでに70日、激闘の末、ついに城は落ちた。37、000のことごとく討ち死にするか首を打たれた。幕府はキリシタン禁制と鎖国の強化に、この後250年の太平の世を続けることになる。

返信する

パスワード

一覧へ戻る】 ※最新の画面を表示するには再読み込みしてください.