「日本の旅と歴史の背景23−2 島原編
新規投稿者 三木  投稿日 08/9/28(日) 06:25:57  返信も含め全削除
らゆきさん」とは「唐人行く(からひとゆき)」から「唐ん国行」(からんこくゆき)という言葉がつづまったもので、幕末から明治を経て第一次大戦の終わる大正期まで、北はシベリアから中国、南は東南アジア、印度、アフリカまで出かけていっては、外国人に肉体をひさぐ(売る)仕事であった。
その出身地は全国に及んだが、特に九州天草、島原の女性が圧倒的におおかった、極貧生活の日々であったからであろう。

極貧生活のつづいた島原・天草
耕して天に至るような段々畑、雲仙岳の噴煙と火山灰の痩せた土地、天草四郎の一揆からも、徳川幕府は過酷なキリシタン弾圧を続け、人口が極度に減っていった。空飛ぶ小鳥の姿さえ、その影をひそめ、人煙の影もなくなった土地に、半ば強制的に人を連れてきた。おもに京都の罪人が数多く移送されてきた。
もともと生産性のない土地、人口が増えても豊穣な実りを期待できない。
人口が増えたといっても、生産高は増えず、以前にも増して民の暮らしは窮乏を究めていった。
 朝から水ばかり飲んで、昼になっても、日が落ちても、晩になって唐薯の
しっぽの一筋しか、口に出来ないような日が続く。江戸時代から明治の代になっても同じであった。明治時代の政府も、底辺の女性を救い、農村の窮乏を根本的に、解決しようという政策はなかった。
江戸時代、東北地方では、生産力の低さ、租税の高さから間引きや、捨て子は後を絶たなかったが、明治時代から警察に睨まれるようになって、年端もいかないうちから製紙、紡績工場へ、北陸の貧しい農村の娘達は、色が白く男性ごのみといわれ、越後芸者になった者が多かった。すべて江戸時代から明治にかけて、底辺にあえぐ人間への、お国の無為無策、富国強兵の政治のために、人間性を失っていった国民が多かった。

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