日本の旅とその歴史の背景24(島原、天草4の2)
新規投稿者 三木  投稿日 08/10/10(金) 10:28:50  返信も含め全削除
当時の極貧の日本女性の辿った路
新しい日本の夜明け、明治時代になって、長い鎖国の世から開放されたといっても、生活は一向に変わらなかった。極貧の生活は極貧のまま、ただ海外へ出稼ぎに行くことが増えたこと、キリシタンに対する禁圧が溶けたことぐらいであった。
天草の男衆は、長崎をはじめ九州一円に散らばって労働力を売ることが出来た。
しかし女性は口減らしをすればいいと言うような境遇、読み書きができない、子守をしても、女中をしても稼ぐ金が雀の涙であった。
 そんな時代、いい話が飛び込んできた。女衒の登場である。彼女らに特別な才能があるわけではない、労働技術があるわけではない、中には多額の借金で、必要に迫られてと、どうしても行かなければならないという女性もいたであろう。
 彼女らは身を隠すように、故国を後にして、女衒の言う一攫千金のハナシを夢に描きながら、シベリアへ、中国へ、東南アジアへ、天草海外売春婦が生まれたのであった。中には密航のため、船底に押し込められ、何日も水も食事も与えられないまま、幽鬼のようになって果てた女性もいる。
 筆者が母と娘のような関係になり、胸襟を開いて語った老婆の言葉に驚く。
13才から、まだ初潮もないときから、ボルネオの慰安所で、イギリス人、中国人、日本人そして現地人を相手にした。女衒の話とは大違い、来る日も来る日も「なんでこげな辛かこと」と天を恨みながら、稼ぐに稼げるほど、こき使われた。
 明治時代、そのような女性の存在は、どうしても日本の国家にとって、必要なことであったという。西欧列強に政治的、経済的、軍事的に、ある程度対抗できるようになるまでは、必要な存在であった。そうなればまさに国家的事業と言うべきであろう。からゆきさんの稼ぎ出す外資が、明治時代の富国強兵の礎にもなっていった。ほとんど自分の手元に残ることもなく生涯を終える。

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