日本の旅とその歴史の背景25(まず長崎から)の1の2
新規投稿者 三木 伸哉  投稿日 08/12/7(日) 10:34:37  返信も含め全削除
永井博士の如己堂
「長崎の鐘」「この子を残して」の著作などで知られる永井 隆博士は、昭和20年8月9日午前11時2分、長崎市に落とされた原子爆弾によって、多くの市民と共に被爆した。我々の年代には忘れることの出来ない人である。彼は白血病と闘いながら、亡くなるまでの3年間、2畳間の「如己堂」で過ごしている。
 僅か2畳間の部屋の半分にベットを置き、原爆症で日々弱っていく我が身に鞭打ちながら、著作に明け暮れたのであろう。
 少年の頃読んだ永井博士の著作に、「この子を残して」「長崎の鐘」があった。長崎医大の物理学療法の部長として、永らくレントゲン技師として、すでに放射線障害に犯されていた。そして決定的な放射能の汚染であった。

 昭和23年、(1948年)僅か2畳間のこの如己堂は、浦上の隣人達から贈られた物であった。子ども二人に永井博士、緑夫人は原爆投下で亡くなった。
「己の如く人を愛せよ」を処世訓にしていた博士が、自らこの2畳間に「如己堂」
と名付けたのであろう。
 長崎は原爆で荒れ野になってしまった、浦上を花咲く岡にしようと、桜の苗木1000本を贈っている。桜の若木は近隣の小学校や民家に贈られたが、この桜は代替わりして、最初の桜はほとんど消えてしまったが、今なお「永井1000本桜」と呼ばれている。
 昭和26年亡くなるまで、病床にいろいろな方が訪問されている。23年には三重苦のヘレンケラーが見舞いに、翌25年には天皇陛下と会い、昭和26年享年43才でこの世を去る。先日5月1日生誕100年であった。
 「永井博士の辞世」
 白バラの花より香りのたつごとく この身を離れのぼりゆくらむ

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