日本の旅とその歴史の背景 29(慟哭の知覧1)
新規投稿者 三木 伸哉  投稿日 09/1/11(日) 07:05:42  返信も含め全削除
日本の旅とその歴史の背景 29(慟哭の知覧1)

とうとう来ることが出来た知覧
もう何年も前から、知覧特別攻撃隊のこの地に来ることを願っていた。
昭和16年12月8日の真珠湾攻撃から、日本が戦果を収めたのは、せいぜいミッドウエー海戦までの数ヶ月で、ガダルカナル、レイテなど連敗に次ぐ連敗、
大本営発表は「いつも日本軍は太平洋○○において赫々たる戦果を収めたり」という嘘っぱちの報道を続けていた。
3年8ヶ月の太平洋戦争の最後は、特別攻撃隊(特攻)と呼ばれる若き学徒、若き兵士の突撃攻撃隊の散華であった。

この知覧特攻平和記念館は、太平洋戦争末期の沖縄決戦で、人類史上聞いたこともない飛行機もろとも肉弾となって、敵艦に体当たりしたのであった。
その遺影、遺品、記録など貴重な資料を収集し、保管、展示して当時のありのままの若者の様子を再現している平和記念館である。
 知覧は、昭和一七年、大刀洗陸軍飛行学校知覧分教場が開校した。まだ年端もいかない少年飛行兵、学徒出陣の特別操縦見習士官らが、訓練を重ねていたところであった。
 「若き勇士が雲流るる果て、遙か逝きてからざる」と書かれている。胸に刺さる言葉である。沖縄戦で散華された1036の柱の隊員はここから出撃している。 

桜島の上空は晴れていた。この知覧へ来る前に、桜島の麓の鹿児島湾を見渡せるバスの中から、ガイド嬢の説明があった。

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