日本の旅とその歴史の背景 29(慟哭の知覧1)の2
新規投稿者 三木 伸哉  投稿日 09/1/11(日) 07:09:22  返信も含め全削除
何も知らずに爆撃訓練を続けていた少年兵、学徒出陣兵

「錦江湾に、あのかすかに見える低い建物のような物がありますね。あの建物めがけて20歳前後の航空兵が爆撃の練習を始めたのです。自分たちが特攻として死んでいくことも知らされず、ただひたすら練習を開始したそうです。
どうしてこんな練習をするのかと不思議に思う少年達もいたそうです」
これが昭和17年3月大刀洗陸軍飛行学校知覧分校の始まりであった。

国際情勢の緊迫するなか、特に日本の敗戦が色濃くなった昭和20年、本土最南端の特攻基地として、およそ1000人の若き兵士が、帰らざる壮途に就いたのであった。
特攻は知覧から、沖縄諸島からも、総勢約6000、その内およそ2000が敵艦に体当たりをすることが出来たと言われている。
しかし神風特攻隊は、アメリカ艦隊にとっても驚異であったろう。まずアメリカ軍はこのような自爆テロのようなことは行っていないから。
太平洋戦争でも、ベトナムでもイラクでも。自国の軍隊の兵士の命をこのように自爆テロのように、扱うことはしていない。

 昭和二〇年の終戦時の日本人の平均寿命は、男子二八才、女子三八才という統計がある。いかに前途ある日本の若者が無謀な戦争で命を落としたか。戦艦大和では艦長が前途有為な四〇名の若者を、下船させている。
しかしこんな例はきわめて稀であった。

返信する

パスワード

一覧へ戻る】 ※最新の画面を表示するには再読み込みしてください.