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新規投稿者 三木伸哉  投稿日 10/10/27(水) 06:31:53  返信も含め全削除
中佐の肉片は艇内にのこし、海中に墜落した、と生々しく新聞は報道した。
またある新聞は「ある人叫んで軍神と唄ふ」とする戦地からの電報が掲載された。はじめて日本で「軍神」という言葉が登場した。
国民は熱狂した。マスコミの操作は国民をどうにでも操れる。さらに新聞論調は、「中佐の偉業は、教科書の一節に加え、遠く万世の亀鑑とすべし」と書き、和歌、俳句、漢詩を全国から公募した。このように広瀬を称揚する言葉が連日新聞の紙面をにぎわした。

これは軍令部参謀 小笠原 長生少佐の文才豊かな才覚によるものであった。事実の羅列に過ぎない当時の新聞の紙面に、血液を注ぎ、華を咲かせた文章である。小笠原の巧みな広報活動が、世論を喚起させ、誘導していく。同じような戦死の美談が教科書に掲載された。そうした美談が国民の中に語り継がれ、真珠湾攻撃で、特殊先行艇に乗り組んで死んでいった「九軍神」が英雄として讃えられた。

そのような語り継がれる軍人の美談が後世の「特攻」に繋がっていった。いったん忘れかけた広瀬中佐の美談が、太平洋戦争に最中、カーテンコールのように再登場したのである。サンテブルグのあの街路樹の影で、ロシア貴族の令嬢と恋に落ちて語り合う場面は、ほほえましい。生涯独身を貫いた広瀬中佐であったが、戦死しなかったら、碧眼金髪のこどもが生まれていたかも知れない。

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