旅順からの「坂の上の雲」18 の1
新規投稿者 三木伸哉  投稿日 10/11/11(木) 10:58:29  返信も含め全削除
旅順からの「坂の上の雲」18
登場するさまざまな人物像(正岡子規の青春)
「まことに小さな国が開花期を迎えようとしている。小さいと言えば明治の初年の日本ほど小さな国はなかった」の小説で始まる、そしてNHKの第一回放送から5回まで同じナレーションが流れた。
「産業と言えば農業しかなく、人材と言えば300年間、読書階級であった旧士族しかなかった。しかしだれもが国民になった。四国伊予松山に3人の男がいた。俳句、短歌の世界に新風を入れ、その中興の祖となった正岡子規である」と。

子規は身分は低くないが、少年の身の上ながら、すでに当主であった。祖父に大原観山をもち、幼いときから祖父から漢文の素読を教わった。朝五時から六時まで小学校へはいる前の、正岡子規の日課であった。
「升(のぼる)は、なんぼたくさん教えても覚えるけれ、教えるのがたのしみじゃ」と生涯チョンマゲを結っていた祖父であった。


返信 1 三木伸哉  投稿日 10/11/11(木) 10:59:14  削除
伊予松山の殿様は家康の異父弟、代々幕府を支えていた佐幕派であったから、明治維新になって、官軍の土佐藩が松山藩を占領すべく北上してきた。
「朝廷に降伏せよ、一五万両を朝廷に差し出せ」の命を受け、貧乏な藩になってしまった。
正岡家は、秋山 真之より上の上士の身分であったから、真之からねたまれた。
「正岡家は、上士じゃけん、うちよりお金があるけん」それに子規(幼名 昇)は応える。「すねる淳さん(真之の幼名)は野良犬のようじゃ」しかしこの2人の交友の篤さはどこからきたのであろう。小学、中学、大学予備門で別れ別れになるまで、二人の交友関係の篤さは変わらない。

もう四〇年も昔になるけれど、はじめて松山の道後温泉に行った時を思い出す。伊予のミカンを味わったが、北海道で味合うミカンとは、数倍その味が違っていた。地味が肥え、温暖の気候がこのような生り物に、豊かな味わいを、もたらすのであろうか。

子規は大学予備門を中退して、「日本新聞」に入社して従軍記者を目指していた。もうその頃から肺結核は彼の体を蝕み、ときどき血を吐いた。そんな体であったが従軍記者の念願が叶い、日清戦争の旅順に赴いた。清国についたら良い記事をどんどん送るからの」の言葉をのこして、現地に入る。
そこで中国人のあまりにも惨めな状況を知る。日本の軍人の横暴な振る舞いにいたたまれず、上官にただす場面がでてくる。
「可哀想じゃ、どうしてもっと丁寧に扱われんのじゃ」と子規は言う。中国人の刺すような眼が日本の軍人達に向けられている。
「日本の軍人さんありがとう」と言っているのだ、と上官の応え。
私はこのNHKの放送が中国人の目にどう映っているかが気になっている。もちろん今後の日中関係に配慮しながら制作しているのであろうが。

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