旅順からの「坂の上の雲」22
新規投稿者 三木伸哉  投稿日 10/12/8(水) 09:28:54  返信も含め全削除
旅順からの「坂の上の雲」22
日清戦争のプロローグ2
李王朝が成立したころ、朝鮮半島には200年におよぶ、ゆったりとした平和な時間が流れていた。それが一気に崩されたのは1592年の秀吉の朝鮮出兵である。秀吉はアジア大陸への野心を抱いてはばからず、朝鮮から明国への進出を狙っていた。朝鮮出兵は秀吉の大陸進出の野望の序曲に過ぎなかった。
 7年間にわたる無意味な戦争の惨禍は、朝鮮の国土に甚大な被害を与えた。
耕作地は3割程度に減り、人口も大幅に減った。

日本軍の第2回目の出兵の時は、さらにひどかった。秀吉は朝鮮の老若男女の首をことごとく切るように命じた。「その首ごと日本に送れ」と命じたのである。日本の将兵たちは、首ごと送ることも出来ず、人々の耳そぎ、鼻そぎをおこない、塩づけにして日本に送った。その数で恩賞を決めたのであった。
これはつい先日、NHKの高校講座「世界史」で聞いたばかりである。残虐行為のことは知っていても、まさかそこまでという残虐さに身の毛がよだつ。
まさに恥ずべき侵略戦争であった。
そして諸大名は、多くの陶工、儒学者を引き連れて帰国した。諸大名はとくに優れた陶工を連れて帰国したのは、茶の湯が盛んであった当時、陶工の焼き物が一番珍重された時代であったからであろう。


返信 1 三木伸哉  投稿日 10/12/8(水) 09:29:48  削除
有田焼、伊万里焼、萩焼、薩摩焼などはみな、朝鮮から連れ帰った陶工たちの傑作の産物である。彼らは望郷の念を生涯抱きながら、この地、日本で果てた。
また儒学者達は、おもに朱子学であったから、政治体制についての学者が多く、彼らは日本の政治体制の確立のために貢献した。日本の朱子学の先人達の多くは朝鮮からの学者の教え子たちであった。
 このような朝鮮文化が江戸の時代に大きく花開かせていく。秀吉の残虐行為にたいして、江戸時代の家康から明治維新の前夜まで「朝鮮通信使」を再開した。足利時代に60回も続けられていた善隣外交であったが、秀吉によって断絶されていたのである。
当時徳川時代、わが国は鎖国制度であったが、例外として中国、オランダ、そして朝鮮とは往来があった。

その朝鮮通信使を迎えるために、国を挙げて歓迎した。数百人の朝鮮人の人たちが、全国を縦断する。そのために「ごちそう奉行」「道路整備奉行」「人足、馬の調達奉行」など、そして日本人には食べることのなかった「けものの肉」まで用意した。この朝鮮通信使のことはあまり歴史書にも載っていないが、善隣外交として、日本の誇るに足る外交であったろう。
しかしその舌の根も乾かぬうちに、また秀吉時代に優るとも劣らない外交、そして36年間に及ぶ植民地支配にいたる。

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