旅順からの「坂の上の雲」23
新規投稿者 三木伸哉  投稿日 10/12/15(水) 11:32:22  返信も含め全削除
旅順からの「坂の上の雲」23
ハルピン駅の伊藤博文暗殺の現場にて
「旧満州鉄道の旅」の折、長春駅のプラットホームを、150メートルほど走らされた。到着する列車番号が違っていたためであった。もともと心臓の調子が悪く、重たいリックをせおっての疾走は無理になっていた。
そんな苦労をしながらハルピン駅に到着。出迎えたハルピンのガイド役の男性が、流ちょうな日本語で自己紹介をしてから、「いまから伊藤博文の暗殺現場に案内します。よろしいでしょうか」という。宜しいもよろしくないもガイドに従うのが日本人旅行者の美徳、おとなしく彼の後を追った。

「みなさん、ここが伊藤博文の暗殺現場です」とハルピン駅の一隅、新装成ったタイル張りの一隅に案内された。暗殺現場というから、100年前の現場がそのまま残されていて、特に日本人と韓国人に紹介するのがガイドの役割かと思った。「なんだろうー、この案内は、」と一瞬訝しく思った。
「日本人の皆さん、日本の初代の総理大臣であり、初代の韓国総督府の統監であった伊藤博文が、ここで凶弾に倒れたのです」と朗々たる日本語で説明がつづいた。つまりこのガイドは、何の変哲もないプラットホームにわれわれ日本人観光客を案内して、「この歴史的事実を忘れないでください」と、言いたかったのであろう。彼はバスの車中、バリトンのよく利いた声で、「北国の春」や「蘇州夜曲」を唄ってくれた。実に上手かった。しかしかつての日本人が満州で何をしたのかも忘れないでほしいという思いを言外に表し、日本人の軍隊が押し寄せて来た避難場所の小学校などにも連れて行った。中国人として無言の訴え、
「日本人よ、この事実を忘れないでほしい」という願いであったのであろう。

返信 1 三木伸哉  投稿日 10/12/15(水) 11:34:17  削除
暗殺者「安重根」は朝鮮人の英雄として記念の銅像も建つ
日本人にとって伊藤博文は明治時代の元勲、明治天皇の信任も厚く、権勢を一身に集めた伊藤は、ハルピン駅頭にて3発の銃弾を浴び69才の生涯を終える。
一般に日本の朝鮮植民地支配は、1910年の日韓併合に始まる。日露戦争後の1905年(明治38年)から5年後であった。
それからどのような植民地支配をおこなってきたかは、書ききれないほどの内容をもつけれども、この朝鮮の伊藤博文の暗殺者こそ戦前の旅順において、最も有名であったという。

7つのホクロを持って生まれたという、長じて「安重根」は革命義士として日本と戦い、ハルピン駅頭で伊藤博文を暗殺し、旅順監獄で処刑された。
妻と3人の子どもがいたが、囚われの身になってからは、一度も妻子に会うこともなかったという。
 「見利思義危授命」利あるときは正義を思い、危うきを見るときは命を投げ出す、と言うのが彼の人生観、日本人の旅順監獄の典獄は、彼の高潔な人柄に魅せられ、絹の韓国の正装で処刑されることを許したと言われている。

返信する

パスワード

一覧へ戻る】 ※最新の画面を表示するには再読み込みしてください.