旅順からの「坂の上の雲」25
新規投稿者 三木伸哉  投稿日 10/12/30(木) 11:43:53  返信も含め全削除
旅順からの「坂の上の雲」25
日露戦争に勝ったが、その後の大誤算 1
日露戦争の勝利はまさに薄氷を踏む思いであった。これ以上半年も続けばもう日本に勝ち目は、なかったというのが一般的な見方であった。司馬遼太郎もその点ははっきり書いている。勝った、勝ったと新聞も国民をミスリードしていったことが昭和20年の8月15日に繋がっていくことになると。

日露交渉の時、小村寿太郎は50才、相手国の大蔵大臣ウイッテは56才、この二人の権謀術数の駆け引きが、思わぬ進展を見せていた。
何しろ150pの小村寿太郎にたいして、180pを越す偉丈夫のウイッテは、敗戦国なのに、このポーツマツ会見の会場に臨んだときは、ニコライ2世から「一にぎりの土地、一ルーブルの金も与えてはならない」との厳命を受けてきている。最初からアメリカの記者団に愛想をふりまき、交渉が有利に展開するように記者団を味方につけようという戦術であった。

日清戦争の過大な賠償金(清国の国家予算の3倍、台湾の割譲など)を獲得しているだけに、日本の新聞もあおり立てて、交渉の成り行きを報道していた。
賠償金はおろか、領土の割譲もないかも知れないという雲行き、この内容が日本に刻々と伝わった。冗談じゃない、あれだけの戦死者、国民こぞっての耐乏生活、親兄弟を戦死させられた家はどうすればいいのだ。国民は怒り心頭。

返信 1 三木伸哉  投稿日 10/12/30(木) 11:44:56  削除
伊藤博文は4回も首相を務めているからこの交渉の難しさを知っていたから、交渉代表を断った。時の政府は桂太郎首相である。あの頃の新聞を見ると、まだまだ新聞の表現の自由が保障されていた。太平洋戦争時代とは大違いである。
桂太郎の妾を自宅に引き入れた顛末などを報じていて、政府の周章狼狽ぶりがよく表現されている。

日本は開戦から1年で片をつけるつもりであった。日清戦争の大勝利の余韻が残っていたのであろう。しかし相手は、列強の中でも最右翼と言われるロシアである、容易に勝てる相手ではない、兵力の数の違い、装備の違いがあったから、初戦で徹底的に打ちのめし、先制攻撃をかける、戦況が有利なウチに、講和に持ち込む算段であった。開戦以来、連戦連勝であったが、奉天(瀋陽)の会議の時は、もう武器や弾薬の補給が途絶えてしまっていた。

日本はこの戦争で108万人の将兵を派遣し、20万人の戦死者を出し、約20億円の戦費であった。このまま戦争を続ければ、日本は保たない。長期戦争は絶対に不利であるということは、政府においても軍隊の上層部も理解していた。

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