旅順からの「坂の上の雲」16
新規投稿者 三木伸哉  投稿日 10/11/1(月) 16:12:45  返信も含め全削除
 旅順からの「坂の上の雲」16
登場するさまざまな人物像(ステッセルと乃木大将)
当時のロシアは皇帝時代の軍人であり、新しい国づくりに邁進する兵士達ではなかった。その点ロシアの兵士たちは、国を思う愛国心が、日本とは本質的に違っていたであろう。
3年前の「旧満州鉄道の旅」の折、ロシアの将軍と日本の将軍、乃木希典が会見をした場所がある。「出師営」(かつての日本兵の応急場所)に行ってみた。

ステッセルと乃木希典の会見の105年後であった。 見るからにみすぼらしい人家、茅葺きの粗末な家、ナツメの木が植えられ、その当時からもう3代目のナツメの樹木であるという。その前で、友人と写真も一枚収めた。
会見場はその当時の建築材を復元しているから、いかにもみすぼらしい平屋の弊屋である。その土間は何百万人の見物客の足で踏み固めたものであろう。
1905年1月5日、旅順要塞攻防を制した日本軍の乃木希典が、降伏したステッセルに会見したところである。大柄のロシア兵、小柄で剽悍な日本兵が車座になって座っている写真がある。
 敗れたステッセルの風貌には敗者の面窶れ、くたびれた大男の暗い影、乃木希典は、すでに2人も息子をこの地で亡くしている。悲痛な気持が、両髭に白く下がった頬髭に憂愁の影がやどっている。

返信 1 三木伸哉  投稿日 10/11/1(月) 16:13:29  削除
死刑を宣告されたステッセルの助命嘆願をした乃木大将
ニコライロシア皇帝はもう落ちぶれていく皇帝であった。ロシア革命の狼煙が各地に上がり、レーニンはじめ革命分子は、皇帝を倒し、新しい国作りにむかうところであった。
ステッセルがいちばん糾弾されたのは、まだ弾薬も残し、食料もあったのに、なぜ降伏したのか、もう戦意がなかったのか、あの東方の小国、イエローモンキーに破れたのかと言う国家の、ロシア人の批判に晒された。
「死刑だ、ステッセルは死刑だ」と断罪されそうになったが、敵将軍を救ったのは乃木希典であった。ヨーロッパの主な新聞に「開場はやむを得なかった」という記事を送りステッセル助命嘆願をしたのである。

日露戦争はあと半年続いていたら、日本は完全に負けていた、国力が完全に払底していたからである。「勝った、勝った」と国民を狂気に落とし入れた大新聞、マスコミの責任も大きい。司馬遼太郎はいつもこのことを書かれている。
いかに日本の資源が枯渇していたのか。その実情を陸海軍は正確におさえていたのか。
なにしろ、日清戦争で得た巨額な賠償金、領土の割譲があったのに、今回の日露戦争の戦死者は比べものにならない、多くの尊い人命は無駄になった、
当時の軍医 森林太郎(森鴎外)が真之と会見するくだりがある。戦死者というより、むしろ脚気、結核、などの戦病死が多かったというのも、医薬の発達していなかった100年前、戦わずして戦死、戦病死が、圧倒的に多かったのも当時の、疾病に対しての医薬品が発達していなかったからであろう。

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